昭和48年12月22日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう、元気な心で信心せよというと、うところが、一番大事なところだと思うですね。その前のところは、こういう道理のもんだと、道理を説いておられる。こんな道理のもんだと言う事を、病気災難の根が切れるということ。しかも一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。ですからその元気な心が問題です。なら元気な心というのは、どう言う事か、私はしんぼうし抜けれる心だと思うですね。
これは合楽の方達の信心をじっと、なかなか素晴らしい信心をさせてもらう、まあ本当に一つの信仰美談というならばですね、本当に美談の一つとして、褒められる程しの信心をなさるかに見える。けれども、後が続かない。そんな感じがするです。例えばそこへ難儀な問題が起こってくるといたしますか、もうそれは取り返しのつかない程しの、なら問題が起きてくるとしますか、そしてその直後合楽の方達の場合は。
目ざましい位に、ああ成程日頃の信心だなあ、日頃の稽古だなあと思われるような信心を必ずぱぁっとしますね。これは皆さん周囲の方達を見てみて下さい。あぁあげな事に直面しとられるのに、ああいう勢いで後が信心さっしゃるなら、どげなおかげ受けるじゃろうかと言う様な信心をさっしやるです。だから日頃のその教えを頂いとるから、その教えがそういう時に現れてくるでしょうけれども、その根本のところの元気な心というのがです、結局、しいら元気という事を感じます。
何事かおこる。これが反発的にぱぁっと燃えるような感じの信心が出来る。それがかに見えるだけである。暫くしよると又、しおだれてからそのやはり挫折せんにしてもだらだらとした信心が続くだけ。これではね、私は病気災難の根は切れないと思うですよ。その例を申しあげると、本当一番よくわかるけれども、これはある意味で傷つける事になりますから、思うて見てごらんなさい。まあ信心しよってあげなこつがおこった。そればってん家族の方達はまた、あげな信心をその直後から続けて行かれる。
信心ちゃ有難いなあと思いよるのも束の間で、つっと消えて言った様な感じになってくるです。それはだから元気な心じゃないと言う事が分るでしょうが。結局その時の、日頃教えを頂いとるから、まあ励まされて、ああそうだという気が起こるだけであってもう励ましがないと、もうすっと信心は地に落ちてしまう。止めはせん何とはなしにだらだらとした信心になってしまう。これではね、病気災難の根は切れんですよ。
だから本当にそこんところを私はあれこれ思わしてもらって、今日しきりに私はその御祈念の中に、そういう方達、おかげを落としているわけではないけれども、あぁその後の信心が、あの時難儀に直面した、そしてそれからぱぁっと却って一家をあげて信心をするようになった。有難いなあと思いよる束の間に、おだれてくるという方達のことを、次々と思うてみてです、ああこれでは本当に相すまん事だなあ。
これは私の信心のいうならば、教導不行き届きだなあと思わせて頂いて、まあお詫びをさして頂いた事ですけれども、今日ここのところを頂いて、二十八節の一番大事でところは、壮健で繁盛するよう元気な、そこから病気災難の根を切って頂く程しの信心が、そこから出来なければならない。元気な心とは、だから私はそこんところを辛抱しぬかせて頂く心が、元気な心だと思うです。そして私は自分自身の事を思うてみます、いうならば難儀困憊の時代に、次々と難儀な事が起こってくる。
それで私の場合はもうやはり辛抱しぬいて、おかげを頂いているうちに病気災難の根が切れると言う様な感じが致します。どうぞ私の信心は皆さんが知ってある通りです。いつも聞かれる又昔からの事を知っておられる方達も、いくらもありますようにです、私の場合私一家の信心はそれでおだれると言う事がなかった。信心がますますその事を以て、いうなら信心の奥処へ奥処へと進んで行っていると言う事であった。成程こういう深い深い御神慮のあっての事だなと言う事が分って行く信心であったと言う事である。
ですからこの二十八節では、どうでもいうなら元気な心で信心せよ。次の二十九節の桜の花の信心より、梅の花の信心をせよという、御理解なんかでもです、私はこれは形じゃわからないなあと思うですね、えらいぱっとした信心しござるけん桜の花、何とはなしにおとなしい信心しなさるけん、あの人は梅の花の信心とは限らない。結局頂いてみて、それが実るか実らないかを見てはじめて、あぁあの人の信心は梅の花の信心であったなとわかるだけの事じゃないだろうかと思うですね。
形だじゃわからんです。神様の眼でみなければ、性格的に派手な人もある、地味な人もある。だから地味な人が必ずしも梅の花で、派手な人が必ずしも、桜の花と言う事じゃないです。私共の場合は、どっちかと言えば、本当に派手です。だから桜の花かに見えるけれども、そうではなかったなあと思うです。何故って、そういう時にますます、信心の奥処へ進んどるからです、私の場合はいうならば、その都度、都度に実が稔っているのですね、私の場合。
ところが私が御祈念の中に思った、二、三の方達の本当にああいう大修行を一家をあげて受けている。人が本当にもう、あそこは信心やめなさるかしれんちゅうごたる難儀な問題に遭うてもです、その直後からもうその翌日から、信心がこう非常に日頃の信心に、ああ有難いなあ、ああ教えちゃ有難いなぁあのようでいきなさるなら、どげなおかげを受けなさるじゃろうか、力を受けなさるじゃろうかという感じがするです。合楽の方達はこれはまあ二十何年間のことを振り返って考えてみれば、なおそう感ずるです。
もうここ最近の事だけでも、それを感じるです。ここ一、二年の事を思うと、ところがです、いわばああ素晴らしいかに見えたんであって、後はすとっと又地に落ちて、というて信心を止めはきらんといった程度の信心が、ぐずぐず続いたところでです、それは病気災難の根が切れることにはならない。いわゆる元気な心がない。一心に壮健で繁盛するよう、元気な心で信心せよと。その元気な心がない。
いやそれは例えば、その難儀を受けて、その翌日からぱっと信心が出来とると言う事は、ああ素晴らしい元気な心のごとあるけれども、それはだからしいら元気と言う事になりますでしょう。しいらと言う事は実がないと言う事なんです。だから本当に実のある元気な心というのは、叩かれれば痛い、けれどもそこを泣く泣くでも辛抱をし続けるという、その心が元気な心なんです。
お互い信心させて頂いとって、何時いかなるどう言う様な事が起きてくるか分らん。ああこれはまだ信心が足りんのだと思うて、そこから信心を進めて行くと言う様な、教えをいわば頂いとるから、そう言う事には案外合楽の方達はです、如何にもつまづかないように見えるけれども、つまづいている証拠には、それがしいら元気である証拠には、その素晴らしい信心がまたすとっと消えていくような信心のような感じがする。
これではいつまで経っても、病気災難の根は切れんと言う事になるのです。惜しいでしょう。信心とは限りないおかげを受けるという事なんです。しかも限りなくより素晴らしいおかげを頂いて行くことなんです。ですから、私共の信心修行というのは、そういうしいら元気でなくて、本当の元気な心というものを蓄えてそれによって、どう言う事が起こっても、その事のおかげでという、おかげを受けて行かんならん。
そこんところを一心に壮健で繁盛するよう元気な心で信心せよというのは、そういう時ではないかと思う。そこでやはり私共の信心がです、やはり桜の花的な信心じゃない、いわゆる梅の花の信心を本気で求めて、梅の花の信心とはどういう信心かと、やはり辛抱強いという事でしょうけれども、とにかくそれは如何に辛抱強いかに見えておっても、その都度都度に花が咲いた、花が散ったああ淋しいけれども、もう次には実りの働きがあっているような私は信心。
花が咲いたぱぁっと散った、もう次には実りもなにもないと言った様な事ではね。先日菊栄会の日に、私がお願いしよりましたら、軸を頂きまして、菖蒲の花がいっぱい咲き乱れている軸を頂いた。その周囲に大きな、大黒さんが座っておって傍に小さい大黒様とも何ともつかぬ、大黒様があまり小さいのでわからんごたるとが、あれは八ミリでしたから、八ミリでしょうか、菖蒲を囲んでおる。
この大黒様だけはとても大きな、とてつもない大きな大黒様だった。そういう軸を頂いたんです。これは菊栄会の人達の信心だなあと私は思うたんです、菖蒲というのは綺麗で姿が良いですね。けれども姿が良いだけではです、いうならば実りにならないです。これは本当に菊栄会の方達は、本当にいうなら何か分らんけれども、大黒様の小さなかとの感じ、そういうのを持っとるんですから、それがいよいよ大黒様的徳に育っていくおかげを頂かなければこれは形のおかげ、菖蒲のようになってしまうなあと思うた。
あれはこう、お恵みの水である間ば咲いておりましょうけれども、水が切れたらすぐ枯れてしまうだけではない。それでは実らない。本当の実りにはならない。ならどういう信心をすりゃ、なら大黒様の徳が受けられるかと、いうなら合楽のハイクラスの信心ををしておると見られておる菊栄会の方達の信心がそれである、菖蒲のような信心、姿形は素晴らしいけれども、これでは実らない。
そこで本当にこの人達に実る信心を頂かせる事のためには、どういう信心さして頂いたならよかろうかと、私は思わせて頂いた。今朝もその事を御祈念させて頂きよっだら、大きな榊の木をこうやって縄で上のところをしばっているところを頂いた。ああこれはもう結局は、そのことにいろいろ深い意味がありましょうけれども、私がもっともっと助かる以外にないなあと思いました。
けども私がもっともっと助かるじゃなくて、銘々がもっともっと、本当に助かるおかげ頂かにゃいかんです。どういう場合にも自分は助かっている、だから辛抱出来んところも出来るのです。夕べ御祈念がすんで、本当不思議なこっちゃある、晩の御祈念は朝の御祈念に参って来る人ばっかりねというた事でした。吉井から波多野さん熊谷さんでしょう、善導寺から原さんでしょう、高松和子さんでしょう、それから椛目が池尻親子でしょう。それに内々の者、いうなら二十名あまりの者が夜の御祈念を頂いとる。
この人達がいつも夜の御祈念に参ってくる。ああもう朝の御祈念にお参りが出来んからせめて、夜の御祈念にでもと言う様な人がないと言う事ですね。してみると吉井から善導寺の遠い所の辺りまで、やはり朝も参って又というのはです、これは只言うたから参れるもんじゃない。いうならば信心が身について行く事が楽しい、そういう方達が特別にもっておかげ頂かんならんけんというて、やあやあいうて参ってくるのじゃないです。
いうなら、おかげは安定したおかげを頂いている人達ばっかりなんです。これも夕べ不思議な事だねというて最後に話した事ですがね、そうしなけければおられないのもを私はつくって行かにゃいかんと思う。信心はどういう事であってもです、信心はそうしなければおられない、私は内容をつくって行く事だ。そういう信心から、今日元気な心で信心せよと、それは私は今度の大祭にも感じた事ですけれども、同じ形の上で御用を頂いておりましてもですね。
もう生きたものも何もない、御用を頂く方を惜しいと思うけど、一人、二人いくらもあると言う事ですよ。そういう信心が続いたところで元気な心はいざと言う時には出やしません。本当に一口、注意をしようかと思う位ですけれども、まあ申しません。只私がそれこそ、もっと力を頂くか、助かる以外ないなと思うんですけれども、だから銘々がです、もっと力を受けもっと信心をわからせて頂くことの信心に心を燃やさせて頂くような心にです、いよいよのときに、元気な心が生まれてくる。
元になるのではないか、ただ歯を食いしばってもっておるような事が元気な心ではない。元気な心というのは、だからいうならば、実ることのために是非必要である。壮健で繁盛するための信心である。いよいよ今年よりも来年というように、繁盛して行くことのための信心である。為に元気な心、私共が元気な心と思うとる元気な心がいわば、しいら元気というようなものではなかろうか、検討して自分の信心をいよいよ、正道な本当の元気な心で願えれる信心を身につけて行かねばいけんと思うね。
どうぞ。